【かなわのあと】 『鉄輪』とは怨霊を題材とする謡曲である。夫に離別された女が,貴船社に丑の刻参りを果たし,火を灯した鉄輪を頭に載せた鬼のような形相の生霊となってその男の枕元に立ち,恨みを晴らそうしたが,陰陽師安倍晴明の祈祷により退散したという。この石標は,登場人物の男が住んでいたとされる地に因んで建てられた。なお,この地には鉄輪ノ井と名付けられた井戸があるが,謡曲『鉄輪』には出てこない。 อ่านเพิ่มเติม
【かんけていあと】菅家(菅原氏)は文章家として朝廷に仕え,多くの学者を輩出した家。菅原道真(854~903)は,宇多天皇(867~931)に重用され右大臣まで昇ったが,謀反の嫌疑をかけられ九州大宰府へ左遷され,その地で没した。この石標は,南側の白梅殿(菅家累代の邸宅)に対して,紅梅殿と称される道真邸跡を示すものである。 อ่านเพิ่มเติม
【ほうえんしょうがっこうのひ】豊園小学校は明治2(1869)年,下京第十番組小学校として開校し,同8年に豊園小学校と称した。この地は豊臣秀吉(1536~98)の別荘竜臥城の跡地で,秀吉が茶の湯に使ったと伝えられる邸内の井戸豊園水に因んだ命名。平成4(1992)年に格致・開智・有隣・修得と統合され,豊園小学校の地に洛央小学校が開校した。この石標は統合前の豊園小学校を示すものである。 อ่านเพิ่มเติม
日本最初の電気鉄道である京都電気鉄道株式会社の伏見線は,明治28(1895)年に開業し,この地を起点として伏見町下油掛までの約6kmを走った。この石標は,電気鉄道事業発祥地として伏見線起点を示すものである。 อ่านเพิ่มเติม
豊臣秀吉が天下統一の後、その権勢を誇るものとして「天下泰平」祈願の寺・方向寺(大仏殿)を建立した時、その資材(石材)を瀬戸内の島より諸大名に命じて、伏見港から京へ搬入するために、天正十四年(一五八六)、当時の豪商・角倉了以に命じて、御土居の外に沿って掘らせ、慶長一九年(一六一四)、現・一之舟入(二条 อ่านเพิ่มเติม
【めいじてんのうごこやすみどころきこくてい】明治5(1872)年5月23日明治天皇は巡幸に出発。伊勢・大阪を経て入京。6月4日再度大阪に向かう途中,この地で休憩。中国・九州・四国を巡幸,7月10日海路神戸を発ち,12日横浜に到着し,還御。枳殻邸は,東本願寺の別邸。明暦3(1657)完成。正しくは渉成園というが,園内と周囲に植えられた枳殻(からたち)にちなみ枳殻邸と呼ばれた。 อ่านเพิ่มเติม
書家松下烏石(1699~1779)が建立した碑。筆硯紙墨の文房具を,朱雀・青龍・白虎・玄武の四神になぞらえて顕彰した銘(四字一句の韻文)を刻む。この碑は道祖神社(油小路通塩小路下る)内書聖神社に建立されたが,1994年現在地に移設された。 อ่านเพิ่มเติม
【ちょうそかべもりちかこうまいしゅのち】長曽我部盛親(1575~1615)は土佐の戦国大名で,関ヶ原の戦後は京都に隠棲した。大坂の陣で豊臣方に付き敗走し,山城八幡付近で潜んでいるところを捕えられ,元和元(1615)年5月,京都所司代板倉勝重(1545~1624)の命により斬首された。この石標は盛親の埋首地を示すものである。 อ่านเพิ่มเติม
亀山は現京都府亀岡市。江戸時代前期,広島藩邸があったこの地に,享保15(1730)年頃,丹波篠山藩主松平信岑(1696~1763)の屋敷が置かれた。寛延元(1748)年,信岑が丹波国亀山に転封されたのに伴い,同藩邸となり,明治3(1870)年民有地となるまで存続した。この石標は亀山藩邸跡を示すものである。 อ่านเพิ่มเติม
芹根水は,堀川通木津屋橋下るの堀川沿いに湧いた水で京の七名水の一つ。堀川と同水位だったので,川水が入らないように書家松下烏石(1699~1779)が寄進した井筒で囲まれていたと伝えられる。茶人や文人をはじめ人々に親しまれたが,のち堀川の水が流れ込み用をなさなくなった。この石標は,烏石が宝暦年間(1751~64)に建てたものであるが,昭和57(1982)年の堀川暗渠工事の際に現在地に移された。 อ่านเพิ่มเติม
【ぜにざばあと】銭座場は,この地よりやや南の東之町・西之町あたりにあった銅銭の製造所のこと。元禄11年(1698)に設置され,当初は6,400坪の広さで寛永通宝を製造していた。宝永2年(1705)に480坪拡張され,宝永4年からは宝永通宝を鋳造したが,宝永6年に停止され鋳造所としての歴史を閉じた。その後、享保16年(1731)から開発され,銭座跡村(銭座村)となった。 อ่านเพิ่มเติม
新選組は慶応3(1867)年に屯所を葛野郡不動堂村に新築し,それまで屯所としていた西本願寺集会所から移転した。この石標は不動堂村屯所の跡を示すために建立された。本碑の北に隣接する副碑碑文にも記すように屯所の正確な位置は未詳。碑文に引く史料に従えば,この碑よりさらに西北の地に相当する。 อ่านเพิ่มเติม
明治2(1869)年,新町通四条下る西側に開校した下京第九番組小学校は,同9年この地に移転し,成徳尋常小学校となった。昭和6(1931)年に下京区高辻通室町西入に移転し,同22年新学制のもと中学校となる。この石標は成徳小学校跡地を示すものである。 อ่านเพิ่มเติม
田儀兵衛(1832~93)は紀伊郡柳原町の名望家。私財を投じて貧民救済を行い,明治19(1886)年に流行したコレラの防疫活動にも尽力した。同22年,柳原町町長に選出された。この石標と石碑は,その業績を顕彰するものである。 อ่านเพิ่มเติม
【いとうかしたろうほかすうめいじゅんなんのあと】伊東甲子太郎(1835~67)は常陸国出身の新選組隊士。近藤勇(1834~68)とともに新選組を結成したが,内部対立により孝明天皇山御陵衛士と称する別組織をつくった。しかし,慶応3(1867)年11月18日この地で新選組に襲撃され,駆け付けた同志3名と共に倒れた。この石標は伊東らの終焉地を示すものである。 อ่านเพิ่มเติม
鉾頭に三日月をつけているのでこの名で呼ばれています。装飾が細部にいたるまで素晴らしく、動く美術館と讃えられています。文化文政(江戸後期)の美術爛熟期に工芸装飾の充実に力を注ぎ、当代随一の名工の力を得た飾金具類は圧巻です。また、左甚五郎作と伝えられる彫刻、円山応挙の屋根裏絵画、天井の源氏五十四帖扇面散図などその華麗さ豪華さは山鉾の中でも屈指のものです。 อ่านเพิ่มเติม
古く応仁の乱以前に起源を持っていますが、明治4年以降途絶えていた傘鉾です。昭和60年に本体が再興され、路上に飾るだけの「居祭(いまつり)」を続けていましたが、3年後に踊りと囃子が再現され完全復興しました。棒振り踊の構成は、棒振り2人と鉦(かね)・太鼓・ササラ各2人の計8人の子供からなります。囃子に合わせて踊る様子は、綾傘鉾のそれとは印象が違っていて、実に味わい深いものです。 อ่านเพิ่มเติม
古く応仁の乱以前に起源を持っていますが、明治4年以降途絶えていた傘鉾です。昭和60年に本体が再興され、路上に飾るだけの「居祭(いまつり)」を続けていましたが、3年後に踊りと囃子が再現され完全復興しました。棒振り踊の構成は、棒振り2人と鉦(かね)・太鼓・ササラ各2人の計8人の子供からなります。囃子に合わせて踊る様子は、綾傘鉾のそれとは印象が違っていて、実に味わい深いものです。 อ่านเพิ่มเติม
『古事記』『日本書紀』に記される「国生み」と「天の岩戸」の神話を故事にもつ、曳き山。「天の岩戸」は、素戔鳴尊の乱暴に天照大神が岩戸に隠れられたため、天地は常闇となり、八百万神は安の河原に集まって対策を練り、常世の国の尾鳴鳥を鳴かせ、鏡を鋳造し、500個の勾玉をつくり、天香山の榊を立て、天鈿女命が舞った伝承である。屋形内に、伊弉諾尊、天照大神、手力男命の3体の人形が飾られる。 อ่านเพิ่มเติม
保昌山【ほうしょうやま】 山鉾:舁山(かきやま) 特徴:紅梅を手折ってくる保昌の人形が載っている 別名:花盗人山(はなぬすびとやま) 祇園祭の山鉾町で最も南に位置する。丹後守平井保昌(たんごのかみひらいやすまさ)と和泉式部(いずみしきぶ)の恋物語を表す。 อ่านเพิ่มเติม
保昌山【ほうしょうやま】 山鉾:舁山(かきやま) 特徴:紅梅を手折ってくる保昌の人形が載っている 別名:花盗人山(はなぬすびとやま) 祇園祭の山鉾町で最も南に位置する。丹後守平井保昌(たんごのかみひらいやすまさ)と和泉式部(いずみしきぶ)の恋物語を表す。 อ่านเพิ่มเติม